コピー

私は母と似ている。これは夫に言われた話だ。

まるで母のコピーのように出来ているらしい。

しかしコピーはオリジナルには勝てないそうで、

本物は私には言いたくないほど、

もっと邪悪のような存在なのだと言っていた。 

 

私自身は自分のことを正しく観測出来ないらしい。

母の刷り込みの自分を読み取ってしまうらしく、

常に母の設定した自分しか見えていないそうだ。

 

嫌いな人間と同じになりたくない私だけど、 

パニックの症状は私の方が随分重くなってしまった。

注意や変更を言い渡されるだけで、

頭で理解しようとしている間に身体に症状が出る。

手足から力が抜けたり、唇がしびれたり、

息苦しくなったりする。

頭の中ではまた始まってるとか、いつ止まるんだろうとか、

身体に置いて行かれたような状態になる。

パニック障害は突拍子もないと調べたら出てくるので、

規則性がある分これは違う症状なのかもと思っている。

 

食事以外楽しみがないことは同じかもしれない。

感性が乏しいらしく、物事を楽しむのが下手らしい。

器用な人間には娯楽になっても、私には疲れることが、

あまりにも多すぎるんだろう。

続けようとするとプレッシャーをかけすぎて、

最終的に投げ出したくなってしまうのもあるだろう。

 

母みたいになりたくないって何をすることなのか。

夫に相談した答えは何もしないだった。

理想が無駄に高いと母みたいになると言っていた。

毒親育ちは友達を作れない

友達を作るとき、人は何を考えるのか。

私は幼稚園くらいだと、

「近所の公園にいたから一緒に遊んだ」

くらいの理由で自分と同い年か小さいくらいの子に、

よく声を掛けて遊んでいた。

公園の近所に住んでる子とはとても仲良くなった。

同じ年代の頃に遊んだ子の顔は全く覚えていないのに、

女の子の顔はとびきり可愛かったは覚えている。

その子の兄達にはよくゲームを貸していた。

貸したゲームを見ていると倒せなかったボスが、

簡単に倒されていくものなので、

夢中になって残機を集めては貸していた。

女の子とはゲームボーイのソフトを交換して、

公園のそばにある玄関で長々と遊んでいた。

 

私には母親の友達の子供こそいた。

しかし私はのび太みたいな立ち位置で、

ジャイアンスネ夫みたいなやつらと遊べば、

桃鉄で酷いリンチを食らう立ち位置だった。

女の子もいたが習い事が多い子で安定して遊べず、

年下の女の子は中国人ママで物凄く怖かった。

母は頻繁に年下の女の子の優秀さを羨んでいた。

身体が細くて英語も使える頭のいい子だった。

中国は子供への教育が厳しいことを最近知って納得した。

しかし彼らはママ友の子供だった為、

一緒にいると母親という存在がつきまとった。

 

あれは家に招かれて食事をした日のことだった。

私は熱いご飯茶碗を持つことが出来ず、

「あつい!」と茶碗を机に置いて食べようと思った。

すると母が「お茶碗を持つのはマナーでしょ」とキレ出した。

「○○ちゃんは持ってるでしょ!」と怒り、

私は「あつい」とボロボロ泣きながら食べた。

全く同じことは二度ほど繰り返された。

他にも友達が石を投げるのを真似して投げたら、

私だけ友達の親に怒られて母にそれを無視されたり、

友達と喧嘩しちゃいけない(幼稚園児相手)とか、

いつもとは別人のように厳しくなった。

だから私は次にママ友集団と食事をする時、

コンビニ弁当だったので加熱のいらない冷やし中華にした。

 

公園近くの子は母の知らない子供だったので、

遊んでいて楽しかったしとても気軽だった。

しかしこれが小学校くらいになると、

近所の子供はみんな顔見知りになってしまうのだ。

 

私は友達作りを恐れるようになった。

他のみんなと違ってなんとなく楽しいからでは遊べなかった。

友達がいれば親は厳しくなるし、比較もしてくるし、

友達の数だけ自分はどうでもいい存在にされると、

もう感じ取ってしまっていたのだ。

異性的な名前という歪み

私の名前は男っぽい。
父親から悪ふざけで「〜どん」と呼ばれるたびに、
怒っていたのが幼少期だった。
父は私に「愛想がない」「顔はいい、頭はいい、性格はちょっと」とふざけ半分に馬鹿にするものの、機嫌がいい時はなんでも買ってくれた。しかし豹変する人で鬼の形相になり怒鳴ったり叩いたりしてくるのでアニメに『サザエさんの波平』『クレヨンしんちゃんのみさえ』があったので怒鳴ったり叩いたりするのはおかしいことではないと思っていた。だから家を追い出されるは他の例を知らなくて自分は『こどものおもちゃ』の子みたく捨て子で拾ってもらった身だから、これでも優しくしてもらってるのだと泣きながら考えた。

女の子は髪が長いものなので髪を伸ばし、
スカートを履いて、赤とピンクを好んだ。
白は汚れが目立つという理由で、
白い服はあまり選べなかった。
帽子は髪が見えなくなるから嫌った。
アニメが教科書の幼稚園児にとって、
『帽子とは女であることを隠すもの』
であった為に私は帽子を意地でもつけなかった。

小学生になると親の仕事で遠くに転校した。
最初父のは単身赴任だったが、
幼稚園から小学校で周りの人間が一変して、
怒鳴る教師だらけの学校に私も疲弊していた。
そして名前で男子からいじめられた。
オカマだと言われた。
それから私は自分の女らしさに自信を失った。
小学二年生で女の何がわかるわけでもないが、
性別という自分を形作る一つを否定されるのが苦しかった。
自分の名前が歌詞に出ると叫ぶようになり、その後は耳を塞ぐようになり、最終的には自分の手を引っかく自傷行為をするようになった。名前では呼ばないでと周囲に頼んだ。
そんな常に見えない敵との攻防をしているように暴れる癇癪持ちの私を周囲は当然嫌った。

同級生から陰口を告口され、教師に言いに行こうと言われるまま呼び出され、普段から優しくて絵が上手で尊敬してた子がすぐにごめんなさいと言ってきた時は本当に言われてたんだと悲しかった。
私は好かれようとするにも人と趣向を合わせることと物を貸すことくらいしか人に優しくする方法がわからなかった。消耗品も貸すから親には怒られた。自分は嫌われた存在って認識があったから、相手の幸せを願うなら自分は離れなくてはいけないという認識もあった。

母親には普通の子になってほしいと常に言われ続けた。病院に連れて行くと脅されて普通になるからと泣き叫んで学校に行くものの、体育や昼休みのクラスでの運動では足手まといだと怒鳴られ、授業中の音読では聞こえませんと野次を飛ばされ、図工の時間では絵を馬鹿にされ、そのたびに泣いて教室を飛び出して、失敗経験だけが積み重なっていった。廊下を歩いていれば名前を馬鹿にしてきた男子に死ねと言われる日々だった。どうしたら耐えられたのか今の私にはわからないし、そもそも耐えるべき場所だったなんて思いたくはないけれど、私は小学生の頃から自分の性別に対してか、自分の名前に対してか、強いコンプレックスを持っている。
自分の性別を嫌っているのではなく、自分の性別に固執している。自分を組み立てるパーツである名前が使われるべきものではなかった。まるで壁が一つ抜けた家のような状態で、私はハリボテの壁を必死に支えながら常に外からのストレスに晒されているようで、こんな状態で普通なってなんて酷いことを言ってくるよと今では思う。普通じゃない名前にしたのは母親の方なのだ。私だって普通に生きて普通に楽しみたかったのに、あらゆる言葉、自分に関係のない空想の世界の登場人物が自分の意見を述べるところを聞いただけで自分への否定や攻撃だと思ってしまうまで追い詰められてしまった。この世にある安価な趣味の代表格であるテレビ、読書も楽しめない。だから私は自分の名前なんて大嫌いだ。着たい服を自由に選べず女らしさに気を遣ったり、食べ物や飲み物も女らしさで選ばせる学生時代を送らせたこの名前が本当に大嫌いだ。

愛着障害

頭が真っ白になるのです。

なぜ真っ白になるのかと言えば、

問題を間違えたとか、少し会話が通らなかったとか、

予定が変更されたとか、突然やることが追加されたとか、

日常起こる些細なことです。

 

頭の中で理解しようとしているうちに、

身体は動かなくなり、そのことに苦しむようになりました。

まるで大きな靴を履いたように、

自分の身体という靴を持ち上げることが出来ないのです。

私は完璧でない自分が許せないのです。

そのことに気が付いたというのに、

頭の中でどうにかやっていこうと思っても、

身体がちっとも制御出来なくなってしまいました。

 

私には失敗してもいい時代が一度もありませんでした。

ご飯は美味しく食べなくてはいけないし、

食卓では楽しく会話をしなくれはいけないですし、

友達と仲良く出来たと報告しなくてはいけないですし、

ゲームはイライラせず楽しくやらなくてはいけないですし、

友達とは喧嘩もせず、何かあっても許さなければならず、

母の機嫌を損ねれば父は怒り、

近所の子と少し喧嘩をすれば母から暴言を吐かれ、

家から追い出されました。

母にとっては私よりも私のお友達の方が大切でした。

だから私は友達を増やすことをやめました。

大勢に嫌われないようにするのは難しいから、

大勢と一緒にいることをやめました。

人間関係で完璧であることは難しいから、

人間関係を作ることを、私はやめたのです。

 

私の人間関係は上下関係と利害のみのものになりました。

先生が私に優しくしてくれたから、

大人の人が好きになりました。

同級生は私を嫌うから、同級生は嫌でした。

私が仲良くなりたいと思ったところで、

私がいない方が楽しいと同級生言っていました。

体育にとりえのないよそ者の人間は、

小学校の世界にはいらない存在だったのです。

私は好き好んで人を不幸にしたいわけではありませんでした。

だから人が喜んでくれる精一杯のことが、

私が目の前からいなくなることだったのです。

 

学校は誰かを虐げることで誰かと結びつく世界でした。

被害を受けた私からしたら許せないことだけど、

大事にする誰かを選んでいるというのは、

立派なことにも思うのです。

母は人を大切にするように口では言うけれど、

誰も大事だと思っていないことを、

どこかで無意識に感じていたのかもしれません。

 

母は自分の体裁だけが大事でした。

そのためになら家族を亡き者として扱いました。